授戒会事後講座
c_danka1_2w1.gif いのちにならう
 ~ 般若心経のこころに学ぶ生と死 ~

青松講座Ⅰ 目次

■ 開講の辞
■ 講師:金子真介師からのメッセージ
■ 参加要項
■ 講座日程

開講の辞

青松寺授戒会において『私たちが生きていくために』のテーマを掲げて研修を重ねた私たちは、仏教に生きる機会と姿勢を学ぶことができました。
‘仏教に生きる’
それは「私たちの生き死に」に外ならなかったのです。

生から死、死から生へと繰り返す人の生き死には、《生命(いのち)》と文字に表すならば科学や医療等に限定された内容になりますが、《いのち》と記すならばその意味は非常に広範囲にわたります。
人は、この大いなる《いのち》を親から子へ、子から孫へ、時には喜びとし、時には悲しみとし、あるいは苦しみとして、私たちの身と心に受けて悠久の時を生きてきたのです。

しかし、文明の進展により経済優先、速度優先の風潮となった現代においては、《いのち》は限定されるようになり、その為に個々人の関係はきしみ、ご存知のとおり殺伐とした事件が続発する世の中となってしまいました。

いまを生きる私たちの苦しみとはどういうことか?悲しみとは何か?
私たち自身の生き死にを大いなる《いのち》として学び、喜びも悲しみも、そして苦しみさえも含めて今を生きるとはどういうことかを問うためにこの講座を開講することになりました。
授戒会事後講座がいよいよ始まります。

tibetto.gif金子真介師からのメッセージ

一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。只だ一燈を頼め。
                    佐藤一斎・言志四録より

061209kouza2.jpg人は幸福を求めて、人生という旅をしています。しかし多くは真の幸福が得られずに苦しんでいるのです。その原因はおそらく、求むべき真の幸福の相や旅そのものの実相を知らぬまま、徒に彷徨っているからではないでしょうか。
二千五百年前、やはり真の幸福を求める旅に出て、ついに真の幸福の相とこの世の実相に目覚め、幸福獲得の智慧を悟られたのが仏陀釈尊です。
その釈尊からのメッセージが仏教聖典です。五千余巻あると云われる中で、おそらく世界の最も多くの人に届いているメッセージが般若心経でしょう。
その内容は文字数わずか二百六十二ながら、我々が生きるこの世の実相と仕組み、真の幸福の素顔、その幸福の獲得の智慧がまことに要領よく呈示されています。
複雑多岐にわたる社会構造の中に生きる現代人は、ある意味住事の釈尊以上の苦しみを味わっているのではないでしょうか。その様な時代であるからこそ、今改めて釈尊から現代人へのメッセージである般若心経を紐解き、そこから得た智慧をもって、安心な人生の旅の燈火としてもらうことを願って、般若心経講話を勉めております。

                       金子眞介

■ 講師:金子真介師のご紹介

長崎県 禅心寺住職、「生と死をみつめるセミナー」代表
青松寺授戒会で、現代における生と死の問題をお話しなされた金子真介師が講師をおつとめくださいます。

参加要項

お申込み・
お問い合わせ

※前日までに電話、又はメールにてお申込ください。
当日になってからの参加希望は、直接受付にてお申し出ください。
【電話】03―3431―3514
【Mail】seisyouji@basil.ocn.ne.jp
その際には、以下のことをお伝えください。
①氏名
②連絡先(お電話番号・ご住所)
③参加動機
④青松寺檀信徒の方、青年僧の方、一般の方
参加費
500円
会場
     
青松寺観音聖堂
備考
青松講座は青松寺檀信徒でない方もご参加いただけます

 

講座一覧

第1回:2006年12月9日/第2回:2007年2月17日/第3回:4月14日/第4回:6月16日/第5回:8月25日/第6回:10月6日

講座のご報告

第6回

■日 時 2007年10月6日(土)13:30~16:30
■講 義 金子 真介 師
■講 話 河村 博 氏
■河村博(かわむらひろし)氏プロフィール
1950年、福岡県北九州市生まれ。現在、北海道立水産孵化場の副場長を務める。
魚釣りと釣った魚の飼育観察が子供の頃から好きで、大学で水産増殖学を学んだ後、サケマスの孵化放流と内水面の増養殖に関る調査研究を行う北海道立水産孵化場に勤務。主にサクラマスの生態研究とその増殖技術の開発を手がけた。フィールドは、北海道日本海及び太平洋えりも岬以西の沿岸と河川。特に、秋のサケ資源が低位な日本海沿岸のサケ増殖技術の開発に取り組んだ。
道南の川沿いの林道で出会ったヒグマの美しさに魅入られ、人とサケマス、そしてそれらを取り巻く生き物たちの共生を意識するようになった。
【著書】「日本のサケマス その生物学と増殖事業(共著)」(1988年)


第5回

■日 時 2007年8月25日(土)13:30~16:30
■講 義 金子 真介 師
■講 話 箕輪 幸人 氏
■箕輪幸人(みのわゆきと)氏プロフィール
昭和32年生まれ、茨城県出身。早稲田大学を卒業後、フジテレビに入社。一貫して事件記者。社会部で警察・司法・教育・災害を担当。社会部副部長、社会部長を経て、フジテレビ報道局解説委員を務める。夜のニュース番組(ニュースジャパン)には、平成14年4月からコメンテーターとして出演。

第5回を終えて

~以無所得故(しょとくなきをもってのゆえに)~
○ 宇宙の実相に目覚めて
これまでの四講座において学んだ134文字には、「この世の森羅万象悉く空(くう)であり、とらえどころはない」というこの世の実相と仕組みが説かれていました。
このような世の中に対して、個々それぞれの自己中心的願望をもって立ち向かった自分が苦しかったのも当然であった、と実感できたならば、それが「目覚め」でありました。

○ 今一つの目覚め
この「目覚め」が釈尊の悟りの重要な第一歩であり、仏教の礎でもありましたが、釈尊はその探求を今一歩進めて更なる目覚めを得られ、盤石の目覚めとされました。
それは「自己探求による宇宙に対する自己の実相と仕組みへの目覚め」ということでありました。人間の苦しみは、思い通りになるはずのない宇宙の摂理と、敢えて思い通りにしたい願望の持ち主との対立から生じるのです。
すでに我々は自分と対立する宇宙の実相とその仕組みを知りました。しかし反面、最も身近な「自分・私」をあまりにも知らなすぎるのではないでしょうか。
道元禅師は「仏道を習うというは自己を習うなり」といわれています。

○ 納得を阻む自己
日本人は桜の花が好きです。桜は華やかで、春の象徴であり、しかも春の嵐に無惨にも散るはかなさも見せます。その落花を「散る花の枝に戻らぬ嘆きとは思い切れども思い切れども」と詠んだ人がいます。理屈は解っているが、しかし愛著(あいぢゃく)絶ち難しの心境です。
このような心境をもたらすものの正体が「私」なのです。それは時に、正しい納得や判断を阻みもします。

○ 自己の在処(ありか)
時に極端なほどの自己中心的願望をもって、無謀にもこの世に立ち向かう「私」は、この自分の何処に潜み、どういう働きをするのでしょうか。
人間の構成要素の五蘊の考察に立ち返りながら探求してみましょう。
五蘊の連帯作業は、外部の「色声香味触法(六境)」それぞれを、我が色(肉体)の受付器官とも云える「眼耳鼻舌身意(六根)」で受け止め、伝達器官を経て「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識(六識)」に伝わり、その中の意識が認識し判断し反応・対応を指示するのでした。会社でいうのならば、六根は極めて素直な受付係で、そこから各部署を経由して組織中枢部の首脳に伝えられます。そこで首脳部が判断し対応を指示するのですが、首脳といえども社長を無視することは出来ません。社長の決裁や判断を必ず仰いで最終判断・指示が出されるのです。意識には独自の判断・指示能力はありません。この意識を働かせる「私」は、いま一つ奥の深層部に潜んでいるのです。大脳生理学と深層心理学の知識をちょっと手掛りにたどりますと、自己の在処は、人間の脳の古い大脳皮質の「海馬(かいば)」と呼ばれるところのようであります。

○ 自己の実相と仕組み
脳中枢の深層部に潜む「私」は更に二つの深層心理から成り立っているといわれます。
まず一つは記憶です。それは記憶ファイルともいえるもので、この世に生を受けて以来今に至るまでの全ての経験が記録されています。はじめて見たにも関わらず懐かしい風景だとか、会ったこともないのに夢に見たなど、無意識の記憶をも含めたファイルです。我々はその中の幾つかの鮮明かつ強烈な記憶を順次繋いで、継続しているものを即ち「私」であると思っているだけなのです。その膨大な経験の無意識の記憶が個性・独自性・性癖を作るのです。
六根から伝えられる外的刺激が意識に達すると瞬時にしてファイルが開かれ、価値付け・嫌悪愛着などの判断がなされるのです。
しかしそこには今一つの深層心理の働きがあって初めて「私」となるのです。それは自己愛です。無意識の自我であり、無条件に自分を可愛がる意識で、自己防衛本能とも云えます。いわば自己の本体です。
意識に届いた外的刺激は深層部の自我と記憶ファイルとが相俟って脳脊髄神経から身体末端まで指令として届き、排他的、あるいは執着取得という反応をするのです。
結局「私」の正体とは、脳中枢に潜む記憶ファイルと自我・自己愛とが相俟って起きるその時々の現象ということができます。
インドでは、この記憶ファイルをアーラヤ識(阿頼耶識)、自我・自己愛をマナ識(末那識)と呼んできました。

○ 自己も亦不異空
このように究明して見れば、生まれて以来継続している、定まった実体とさえ思われている「私」も、記憶ファイルと自己愛という二つの要素が条件によって織りなす現象であったということが解ってきます。
「記憶ファイル」は決して消えることはないのですが、日々の新たなる経験が加えられた時、その新たなる経験の中でも特に印象深いものが、そのインパクトゆえに価値観を変えてしまう可能性は大いにあります。つまり、経験を元にした価値判断は条件により変化するということです。
次に「自己愛・自我」という要素は、単に自と他を区別し、無条件に自己を護ろうとするパワーなのですが、しかしこれは記憶ファイルと一緒になって初めて働くもので、その初めからそもそも実体は無いのです。

○ 以無所得故
以上を以て宇宙と自己の実相解明ができました。結果、相対立するものと思われていた双方は、同じく原因と条件によってなる仮の一事の現象であることが判明しました。この究明により我々は初めて「一切皆空」と目覚めることができました。
目覚めると同時に、空なる世の中を生きる覚悟も自ずと知れたことでしょう。
ところで、これまで考えていたこの世の仕組みとは、かくも無常であり、また何より頼みとし、不変のものと信じていた「私」も空なる現象と知ったからには、諸行無常・諸法無我のこの世を、私たちは、何を支えにして生きていけばよいのでしょうか。
それを『般若心経』本文では「所得無きを以ての故に、菩提薩ったは般若波羅蜜多に依るが故に心けい礙無し。けい礙無きが故に恐怖あること無し。一切の顛倒夢想を遠離して涅槃に究竟す」として、目覚めの後の悟りへと誘う生き方と支えを示唆しているのです。
所得無き、つまり無所得とは「空」と同じ意です。これまでの134文字の探究により知り得た、「この世の森羅万象悉く空であり、とらえどころはない」ということが解ったならば、求道者は唯一の不変の真理である仏の智慧を支えとして生きることこそ、彼岸への道、涅槃への道であるという意味です。

○ 空を生きる智慧
この世の実相と仕組みを深く納得すれば、空を生きる智慧は自ずと悟るものでありますが、それを参考までに記せば以下の如くなりましょう。
1) 徹頭徹尾自我を離れた生き方をしている非情にまねぶのです。
しかしながら自我を離れるのは容易ではありません。ならば、
2) 自我を通せば必ず苦があると覚悟を決めるのです。
斯くして、
3) この世の実相と仕組みを深く納得しつつも、自我からは逃れ難いと覚悟を決めて苦を受け入れるのですから、中道に生きることになります。覚悟なしに苦を苦しむのとは本質的に異なります。

                             (事務局 記)


第4回

■日 時 2007年6月16日 13:30~16:30
■講 義 金子 真介 師
■講 話 東島 尚志 氏

■東島尚志(ひがしじまたかし)氏プロフィール
1956年、長崎県佐世保市生まれ。現在、テレビ長崎報道局報道部局次長、兼報道部長を務める。
これまでニュース取材として警察や行政、大学などを担当。安全保障問題や、長崎大水害、普賢岳噴火災害なども取材し、またドキュメンタリー番組の制作も手がけた。2004年には米国務省の招待で全米各地を訪問し、安全保障をテーマに、政府高官や9.11同時多発テロ犠牲者の遺族など意見交換を行った。
【主な番組】
「道ゆきて~ある僧侶の一年~」(1995年・FNSドキュメンタリー大賞受賞)
「いかされて~ある修道士の半生~」(1998年)
「沈黙のマリア~ナガサキから未来をみつめて~」(2001年)

第4回を終えて

~空を生きる覚悟~

「般若心経」を理解していく上でもっとも重要なことは「空」の理解です。
「空」については、般若心経本文の「舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行色 亦復如是」(舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ち空、空は即ち是れ色なり。受想行識もまたまた是の如し)を丹念に学ぶことが大切になります。

私たちの人生はいろいろな苦厄に満ちています。人は誰も皆、この苦から解放され幸福になることを願っているのですが、目先のことに心を奪われ、なかなか「一切の苦厄からの解放」という根本解決には至りません。
仏教では、人生苦の根本解決の極意書として『般若心経』を説き、智慧(般若)を悟り、生きるこの世真相に目覚めることを薦めているのです。

先ずこの世の真相を整理してみましょう。
この世の森羅万象は、眼・耳・鼻・舌・身・意(五蘊)からなる無数の構成要素が、条件によって和合し、条件の変化によって変貌する「仮りの和合」によって成立しています。
故に、(1)永遠不変のものは何もなく(2)全ては流動的で固定されたものはなく(3)全ての現象は互いに依存しあっている、という特徴をもっています。
これが、この世の真理・法則で、この仕組みを完全に把握したものが目覚めたものであり、一切の苦厄からの解放への道なのです。

真理・法則を知識として把握しただけではそれは、机上の論理にしか過ぎません。この知識を基礎に実生活を送ることにより納得が生まれ、目覚めが生まれるのです。
知識を胸に日々を素直な気持ちで過ごすならば、人々は様々な出会いをし、めぐりあいをします。ありふれた日常の出会い、めぐりあいこそが世の真相の深い納得の機縁となり得るのです。それを、目覚めといい、修行というのでしょう。

人は、真理に目覚めると、同時に巧まずして多くの智慧(般若)悟ることになります。
例えば、猛暑のアスファルトの僅かな隙間から芽を伸ばす草花に感動し、命の尊さに目覚め、同時に巧まずして慈悲の智慧を悟るのです。
目覚めと悟り(覚悟)の中でも、最大の目覚め悟りが、人間の生きる意味に目覚め、その役割を悟ることです。その為にはやはり、人間が生きる宇宙の仕組み(真理・法則)を知り、深い納得が不可欠になります。

感情のない(非情)自然の木石達は、生まれた意味も役割も認識することなく宇宙仕組みのなかで淡々と自らの役割を果たしています。しかし、感情のある(有情)の人間は、生まれた意味も役割も認識することが可能であるにも関わらず、それを知ろうともせず、或いは誤った存在観を元に、極めて自己中心的にこの世での横暴を極めています。特に、現代人の様々な懊悩は、宇宙の仕組みの中で極微塵の存在である自分達と、自分達の果たす役割に無知なことから起因しているのです。
人間は、宇宙のリサイクルという仕組みの中で、必要があって生まれ、必要があって人体を成し、必要があって生かされ、必要があって死ぬのです。この摂理に目覚める時、人は巧まずして生きる意味と、役割を悟るのです。だから、生・滅、垢・浄、増・減の些事に一喜一憂して人生を浪費することなく、釈尊の「空」の世界観でもって日常生活の修行に精進し、深い納得でもって世の真相に目覚め、そして同時に智慧に目覚める求道者となることが、「一切の苦厄から解放される」ことにつながるのです。

                             (事務局 記)


第3回

第一部では、金子真介師が『般若心経』のこころを分かり易く説き進めてまいります。
第二部では、金子真介氏と御縁の深い落語家、柳家さん喬師匠のお話を伺います。

■ 講 師:金子真介 師 
■ 講 話:柳家さん喬(やなぎや さんきょう)師匠

■ 柳家さん喬氏プロフィール
・昭和47年11月 2つ目昇進 さん喬と改名
・昭和56年 3月 真打昇進
・選抜若手演芸大賞 真打部門大賞(昭和61)
・文化庁芸術祭賞(昭和62)
・第11回浅草演芸大賞 新人賞

第3回を終えて

~空とは何か、空の解明~

本文「照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」
〈五蘊皆空を照見して一切の苦厄を度したもう。舎利子よ、色は空に異ならず、色はすなわちこれ空なり、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたまたかくの如し。〉

『般若心経』講座、今回は般若心経の根幹を成す空(くう)の解明に入ります。前回の講座で私たちは、一切の苦しみから開放されるには、釈尊の教えを信じ、自我を離れた生活につとめ、この世に生きる自分とこの世の実相(傾向)を知ることが肝要であることをも理解しました。そこで次に〈空〉に先立ち〈五蘊〉を解き明かしていきましょう。

◎ 五蘊(ごうん)は皆空なり
仏教では、自分自身を含むこの世は五蘊(物質存在と精神作用)から成り立っているとします。五蘊とは、「色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊」のことです。〈色〉は色形ある物質存在全てを、〈受、想、行、識〉は精神作用のことを示します。そして、「蘊」とは集合体のことで、集合体は条件によって成り立っているのですから変化し続けています。つまり、この世の森羅万象は常に変容し、片時も固定した実体を留めていないのです。これを〈空〉といいます。

◎ 色は空に異ならず、色すなわちこれ空なり
五蘊を自分自身にあてはめて観察してみましょう。
仏教では集合体としての人体(色蘊)を、「地・水・火・風」の四種(四大)に類別しています。「地」は骨や肉、「水」は血液や水分、「火」は熱、「風」は呼吸や運動を意味しています。この四大が、条件によって集まって人体が構成されています。これを「四大仮和合(しだいけわごう)」といいます。科学の発達した現代からすればまことに大雑把な見方かもしれませんが、分子、細胞レベルからみても自分自身は絶え間なく変化しており、当に仮和合であり、変容しているといってよいでしょう。これを〈空〉であるというのです。『般若心経』では、それを「色不異空 色即是空」と表しています。

◎ 空は色に異ならず、空すなわち色なり
〈空〉の観方から、人体だけでなく、宇宙の森羅万象を観てみましょう。
宇宙には、極微な原子のような粒子が充満しています。それらが、何らかの条件によりたまたま集合して物質を成しています。一口に物質(色蘊)といっても、その中でかなり密度の高いものを「人間」といい、非常に密度の高い空間を「岩石」、少し密度の高い空間を「花」、淡い密度の空間を「虹」、かなり低い密度の処を「空間」といっているのに過ぎないのです。それらは、みな変容しています。
人間を例にとるならば、胎児から嬰児・幼児・児童・生徒・青年・壮年・老年として「老化」の条件の下に変容し、やがて固体の崩壊である死を迎え、分子、元素レベルは大地に散って新たな物質を形成していく。これが、ビックバン以降繰り返される「宇宙のリサイクル」です。
このように、「有」の状態でありながらも、固定的な「有」というほどの状態でもない。しかし「無」ではない。これを〈空〉というのです。ゆえに、自分自身と宇宙の実相は続いた〈空〉といえるのです。

ここで考えを一歩進めてみましょう。
◎ 自分自身と宇宙が空によって形成されているならば、すなわち「色不異空 色即是空」であるならば、逆から見ると空であるからこそ、新たな物質が生成されるのではないでしょうか。空は絶望や虚無ではなく、新たなものを生み出す希望とも、自由とも見ることができます。これこそ空は色に異ならず、空すなわち色なり(空不異色 空即是色)であるのです。

◎ 受想行識も亦た復たかくの如し
しかし、空不異色、空即是色の道理は頭で理解することはできても、なぜ私たちはそれを希望や自由ではなく、虚しく捉えてしまうのでしょうか?それは、五蘊の残り、「受・想・行・識」であるところの精神作用がそうさせてしまうのです。
「受」は、外界の現象を目や耳などの感覚器官で受容し、苦楽や快・不快を受けとめる感受作用です。
「想」は、感受した物事をイメージする表象作用です。
「行」は、感受した物事に対して何かを為そうとする意志作用です。
「識」は、感受したことを分別、判断する認識作用です。
仏教では、この四蘊の精神活動が人体である色蘊と連携して人間を形成していると捉えています。
わたしたち人間は、自分・一貫した私というものがあり、魂などといっていますが、変壊(へんね)する五蘊によって成り立っているのですから、精神作用も含め、実は〈空〉なのです。日々刻々と変壊する心と命は常に新しく、自由であり、希望に満ちているといえるには、やはり〈空〉の深い理解が必要になります。これが「受想行識 亦復如是」であります。
「五蘊皆空 度一切苦厄 色不異空 空不異色 色即是空」は、自我を離れた五蘊の観察と行(波羅蜜)からこそ得ることができるのです。

                             (事務局 記)


第2回

13:30~15:00 講話(般若心経 第2回)
15:00~15:30 講師と会場との対話(コーディネーター:正山寺 前田宥全師)
15:40~16:20 釈尊涅槃図点眼と涅槃会法要

■ 「涅槃(ねはん)」とは (詳しくはこちら・・・>>)
2月15日はお釈迦様がお亡くなりになられたご命日で「涅槃会」と言います。
釈尊ご入滅の知らせを聞いて弟子を初め多くの人が枕元に駆けつけ別れを惜しみました。
この時の様子を描いた絵画が「涅槃図」です。
この度機縁に恵まれ宮廻正明画伯に監修していただくことができ、青松寺涅槃図の制作が完成致しました。この日、静寂に満ちた涅槃図の点眼法要をお勤め致します。

第2回を終えて

「般若心経のこころに学ぶ」も第2回となりました。以下講座の要約を掲載いたします。
第二回からは「般若波羅蜜多」を、悩み・苦しみの多き人生を歩んでゆく為の唯一の灯として学習していきたいと思います。

『般若心経』は本文を三段に分けることができます。
第一段(観自在菩薩~度一切苦厄):『般若心経』全体の大意
第二段(舎利子色不異~故得阿耨多羅三藐三菩提):本論
第三段(故知般若波羅蜜多是大神呪~終わり):般若の実践方法

『般若心経』は、他の経典と比べて極めて特殊な構成組になっています。お釈迦様が求道者である弟子達に対し般若を得るための大意を述べ、その後本論を解き明かし、そして実践の方法を示す、という真にドラマチックともいえる内容なのです。

『般若心経』冒頭の「観自在菩薩」とは、観世音菩薩・観音様のことです。観音様は日本のみならず、中国・韓国・台湾においても最も信心されている菩薩様です。その理由には次の二つが考えられます。
一つは、観世音菩薩のお名前のとおり、人々がそれぞれ持つ様々な悩み苦しみ、願望などの、声無き声(世音)を聞き、ふさわしい対処をしてくださると信じられていること。
もう一つは、観音様が自分もそのようになりたいという‘憧れ’であること。
これこそが、観音様への信仰なのです。
授戒を受けて仏教に生きることを志したならば、自らも道を求めると共に、他の救済を志す菩薩であることが大切です。観世音菩薩には、他を救済するという菩薩が共通に抱く憧れがあるのです。

現代社会は懊悩に溢れています。しかし、その声に耳を傾け、手を差し伸べる人は少ないのが現状です。いや、もとよりその声や音は聞こえないし、人々の心に響いていません。それは世音を観じるという「観自在心」が現代人には欠如しているからではないでしょうか。世音を観じるという観自在の心は、欲望、煩悩、偏見から解放された融通無碍の心です。その心を成すには坐禅を重ねることが大事なのです。

私たちが観自在の心をもって生きるならば、今まで自我に遮られて見聞きすることができなかった社会のありのままの様相が見えてくるようになります。そこで必要になってくることは、聞こえてきた世音にどのように対応して相手に当たるかですが、その判断基準になるのが「般若波羅蜜多」です。
「波羅蜜多」とは「彼岸に到る」という意味ですが、その具体的実践方法として「布施波羅蜜、持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜」の五項目があり、その基本となるのが智慧(般若)波羅蜜となります。これを併せて「六波羅蜜」といいます。

救いを求める自他の声に相応して正しい対応をするという菩薩の行願を身心に持ち続け、ただひたすらに般若を行じ続けるならば、次第に邪見偏見が払われ、自己と人生の仕組み・宇宙の仕組みがありありと照らし出されるようになります。このことを『般若心経』第一段の冒頭では「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時」と言い表しているのです。

照見される自己とこの世の実相を見てみましょう。
観自在の心(無縛の心)でもって自己とこの世の一切を観察するならば、森羅万象すべては色・受・想・行・識(五蘊)とういう五つの構成要素から成り立っており、いずれも条件によって集合化合しています。それらの条件は常に変化して固定した実態ではない「空」なのです。これが『般若心経』本文における「五蘊皆空なりと照見として」の意味です。

観自在の心をもって人間の苦しみを観察するならば、五蘊は皆、固定した存在ではない「空」であります。五蘊は空なるが故に、諸行は無常・諸法は無我であるという道理をわきまえなければ、自我が暴走し苦を生きることになってしまうのです。反対に一切の苦厄から完全解放されることを望むのならば、自ら進んで自我をコントロールすることが必要になります。
しかし道理ではわかっても、実際に自我をコントロールすることは困難です。しかし、その困難な道を歩むのが、菩薩という求道者の道なのです。

                           (事務局 記)

第1回

第1回を終えて

いよいよ授戒会事後講座が始まりました。
私たちは仏教に生きる覚悟を5ヶ月前に仏と自らの心にお誓いし、仏教徒としての第一歩を踏み出しました。しかし、授戒会以後どう暮らしてきたか振り返ると、時間を経るに従いゆらぎが生じてきたような気がします。金子さんは、自らが授戒会以後大きな過ちを犯さずに生活してこられたのは心の支えとして『般若心経』があったからだと話されました。
世界にはいろいろな民族が生活し、そこには無数の宗教が存在して「人々の生き方の規範」としてこの世を生きていく上での「傾向と対策」を指し示しています。私たちは、この仏教を規範として生きてゆくのです。
仏教・釈尊は、この世を(宇宙の実相)を「苦」とし、その苦の世界を生きていく対策として私たち自身の自我をコントロールする「智慧」を説かれたのです。
私たち人間は弱い存在です。授戒会で、仏教に生きる覚悟をし、お誓いをしたにも拘わらず、日々暮らすうちに自我が頭をもたげて活発になり、自分にとって仏教に生きることを誓ったはずなのに揺らぎ、仏法が色褪せてきてしまうのです。
そこで、仏法による自己喚起の生活をするために、わたしたちが生きるうえでの智慧の集約書として「般若心経」を学ぶことが最適であると金子さんは話されました。そしてさらに、「般若心経」を学ぶ用心は、文献研究や仏教史研究ではなく、あくまでも「般若心経」の柱である「般若」と「空」から心を離さず理解して、日常の暮らしの支えとすることが大切なのですと話されました。

                              (事務局 記)